広告批評

『広告』についての色々書きます。

広告はもう一度大きな物語を描けるか

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

久しぶりに広告本来の事について書きます。

 

突然ですが、インターネット上の追跡型広告の個人化の技術は

いよいよ来るところまで来てますよね。

Googleカルティエの指輪(女性用)を検索した後に

何の気なしにInstagramを開いたら、カルティエの広告(男性用腕時計)が出ました。

 

自社の製品・サービスへ潜在的なニーズを持っている個人を特定し、

その個人の欲望に先回りして広告を提示するという技術。

 

沖縄について一度でも検索すると沖縄への格安航空チケットや

ホテル予約サイトのページが広告として表示される。

といった事が今ではほとんど毎日のように

驚くべき速度と精度で現実に展開されています。

広告の理想形にほとんど近づいていると思います。

 

僕はまず第一に広告クリエイティブが好きで、業界に興味を抱いたのですが

そんな情緒的な世界観とは全く別の次元において、全く別の論理によって

ただ制度的なメディアテクノロジーや媒体を取り巻く環境の変化によって

顧客ニーズが満たされてしまうような広告の冷徹な働きも好きです。

この身もふたもない感じに生理的な快感を覚えてしまいます。

広告はとにかく理系と文系が、聖と俗が、意識と無意識が、混ざり合う場所なのです。

 

ではまたもや唐突に一転し、広告の情緒的な文脈を書いて見たいと思います。

タイトルにある大きな物語とは。。。

とりあえずウィキペディアの記事を引用します。

 

「大塚は『物語消費論』で、ビックリマンシールシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。ここで「大きな物語(世界観・設定)」という意味で「物語」という語句を使うことは紛らわしいことから世界観消費といいかえられることもある[2][注 1]

「東はこれを踏まえ、物語消費論でいうところの「大きな物語(世界観)」が「大きな非物語(情報の集積)」に置き換わり、その文化圏内で共有されるより大きな「データベース」を消費の対象とする形態をデータベース消費と名づけ、特に日本の1990年代後半以降のオタク系文化において顕著にみられるとした。」

 

・・・要するに

「今自分が触れているこの広告は、他のみんなも知ってる広告だ!」

っていう感覚が世の中のみんなに共有されているという感覚

=「(例)ビックリマンシール集め」という大きな物語をみんなで読んでいる

という全体的な感覚のことです。オリンピックとかもそうですね。

これの反作用としていうと例えば

自分だけが知ってたはずのマイナーなバンドがいつの間にか

有名になって、その瞬間なんとなく熱が冷める、といったようなことでしょうか。

 

「マス広告」としてのテレビは

そのような大きな物語を描くキャンバスとして

本当に理想的なメディアでした。そしてその機能は急速に衰えていっています。

笑っていいとも!の最終回がその終焉を象徴的に表しました。

錚々たる芸人たちが一堂に会したあの光景に感動するのは

今までずっとそれぞれの番組を観続けてきた事で

それぞれの物語を読んでいたからです。

しかし、あれからもう毎年のようにテレビ復権の期待が寄せられていますが

今のローティーンからすれば全然関係ないので、

少なくとも10年後にはそんな期待が持たれていたことも忘れ去られてしまうのでしょう。

現在26歳の僕はギリギリこの大きな物語にも乗れた世代です。

個人的にはやっぱり寂しいと感じる部分もかなりあります。

そしてその大きな物語の終焉に参加できなかった

悲しい元芸人の出ていた

テレビCMを覚えていますでしょうか。

 

「おいらはボイラ、ミウラのボイラ。

 知ってる人は知っている。知らない人は、覚えてね。(鼻から湯気シュー!)」

 

(あぁ、紳助さん・・今どこに・・)

このCMのメッセージこそが今回の僕の論旨です。

ネット広告の個人化の流れには、個人間の情報格差と分断が裏返しに存在します。

知っている人だけが知っている、状態とは

知らない人は=知りたくない人なので、

ブランド価値毀損回避の為に、あえて広告が避けられる、状態の事です。

つまり、先に書いたように、広告がテクノロジカルに、効率よく個人に配信され

その情報がその個人以外に共有されない、という特性をもつネット広告は

その便利さがある閾値に達した瞬間(広告される側の経験値が高まり切った瞬間)に

限界効用逓減の法則に従って、広告に触れる人からの

ネガティブな反発が起こりうるというのが僕の結論です。

 

大きな物語が描かれた本が閉じられて久しく

在りし日のリテラシーを失った人々が

広告主から単なる属性の一部として扱われ

数秒ごとに商品・サービスとマッチングさせられる世界

そういう風に、広告される側が、自分を馬鹿にされていると感じた瞬間から

広告価値の急落が起きるんじゃないかと思います。

 

GoogleHomeやLINEClovaといったものが家庭に入りかけている中

果たして今後広告はもう一度大きな物語を描いていけるのでしょうか。

ソフトバンクのCMも新たな段階になった今、そんな事を考えました。