広告批評

『広告』についての色々書きます。

コンテンツと物語性

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

昨日、一昨日とどうぶつの森スーパーマリオランと、ポケモン赤に

夢中になっており続きが書けませんでした。

(なんのこっちゃ)

 

前回の投稿では

fudge0918.hatenadiary.jp

パズドラとかモンストとか

いわゆる「スマホゲー」には「物語性」が無い。

同じゲームであるはずなのに

マリオやゼルダポケモンドラクエファイナルファンタジーのような

伝統的ゲームに対して、それらとは別のカテゴリとして認知されている要因として

「物語性」の有無を挙げました。

 

じゃあその物語性とはなんぞやと。

 

それは、登場人物がおり、統一された世界観があって、それを表現する環境がある、

始まりがあって終わりがある「お話」があるかないか、ということ。

 

マリオとクッパとピーチ姫の三角関係

リンクとゼルダガノンドロフの三角関係

サトシとシゲル、その間のポケモンたちとの関係

 

ゲームの中にこういう奴がいて、それとは違うこういう奴がいて

それぞれが違うベクトルを持っていて

「あるキッカケ」によって

プレイヤーがアクションすることで、互いにポジション関係を持ち出し

周囲の環境とぶつかり動き出すことで物語が生まれていく。

 

ポケモンの例でいうと

サトシには最初何もしたいことがありません。

ゲームが始まる前に、「この世界にはポケモンがいるよ」とだけ言われます。

ここでとりあえずの「環境」が与えられます。

(この「「環境」を与える」ことそのものが、またもう一つのゲームや広告の本質ではあるのですが、またそれは別の機会に。。)

 

次に「目的」が与えられます。

「目的」とは要するに「おつかい」です。

「これこれこうだから、これこれこういうことをしてきてね、お願いね。」

「そうすれば、ちょっと良いこと、面白い事が起きるかもよ。」

とゲーム側から最初のアクションが与えられるのです。

そしてそのゲーム側から仕掛けてきた「おつかい」「お願い」「アクション」に対して

プレイヤーが「リアクション」を取る事で初めてゲームが完成され、動き出すのです。

 

ここまでが、どんなゲームにも

スマホゲーに限らず、オンラインオフラインに限らず)

必ずと言っていいほど、当てはまる要素です。

というか逆にいえば、この条件を満たしたものを「ゲーム」と呼んでいるのです。

 

環境があり、目的があり、アクションとリアクションが連続する。

これがゲームの本質です。

 

ふぅ、ここからが本題です。

結論から先に言えば、ゲームにおける「物語性」とは

アクションに対するリアクション、に対するリアクション。

そしてそれらの記録の蓄積が、事実関係を生成し、変化していく様子。のことです。

(これは完全オリジナルで2017年12月3日の僕が生み出した定義です。)

 

堅い言葉で言い換えれば、つまり歴史のことです。

歴史があるかないか、その違いです。

歴史といっても、もちろんそれが経てきた年月のことではなくて

そのゲームを知らない人にオチのある物語として伝える事ができるか。

という事です。これをクリアできてるものはやっぱり名作として残りますよね。

(また逆説ですが、クリアできてるから残るのではなくて

 語り継ぐ事ができるから結果的に残る、というだけの事なんですけどね。)

 

僕は個人的な趣味の範疇からスマホゲーについて少しネガティブめな表現を

してきましたが、この定義で言えばスーパーマリオ

実はほとんどスマホゲーと変わらないんですよ。

 

スーパーマリオランをやってわかった事なんですけど

要はマリオって環境に合わせてアクションするタイミングを合わせるだけの

リズムゲームなので、引っ張りハンティング的なものとほとんど大差ないんですよ。

その点で言えば、パチンコともかなり近いです。

 

僕は多分子供の頃にその本質を直感で理解してたんでしょうね。

スーファミまでの横スクロールのマリオは正直あまり面白いと思ってませんでした。

でも、なぜこれだけ世界中でヒットしているかというと

要するにプレイヤーの考える幅が絶妙に狭く設計されているからです。

言い換えると、プレイヤーがゲームを読み込む余地があまりないということです。

 

軽快なBGMとシンプルで可愛らしいキャラクターをリズム良く乗り越えていけば

一応ほとんど誰でもピーチ姫を救い出す事ができる。

その間に考えることって、どのタイミングでジャンプすれば

あそこを乗り越えられるだろう、とかいった直感的なことだけです。

 

クリボーは語りかけてこないし、キノコを食べれば大きくなる理由も

そのほかのありとあらゆる事がほとんど明確にされません。

でもとにかく世界観だけはしっかりしていて、スタートがあってゴールがある。

さらに言えばスコアシステムもある。

(隠しコインやクリア時間によってスコア付けされるので、

 クリア後にもっと入り込みたい人はそのハイスコアを更新する事ができる。

 これはポケモンでいうと、ポケモン図鑑にあたる)

 

門戸の開かれ方の広さと堅牢さにおいてはほとんど右に出るものはいない

設計され尽くされたコンテンツなので

今でも任天堂の看板コンテンツたり得ているんだと思います。

そしておそらくそれは多分、任天堂の企業理念そのものの体現であるから。

 

 

コンテンツだけの話でいうと、マリオとゼルダを比べれば

もう少し分かりやすいかもしれません。

(というか分かりやすい例を書きながら思いついてので説明させてください。笑)

 

つまりマリオには物語性(歴史)がなく、ゼルダには物語性(歴史)がある。

という事です。

1面をゴールしたそのマリオが

2面をスタートしようとしているこのマリオである

必然性や繋がりが用意されてないのです。

 

その意味で言えばポケモンもどちらかと言えば物語性があります。

しかもポケモンの本当に面白くて感動的なところは

その物語性が主人公とポケモンの二つに並列・共存しているというところにあります。

どういうことか。

当然ですが、マサラタウンでの目的をクリアした主人公サトシと

次の目的地であるニビシティでジムリーダーのタケシを倒すサトシは同一人物です。

 

何を当たり前の事を言っているんだ、と困惑される方は

もうここから先の文章は読めないと思います。

それは嫌味でもなんでもなく、僕の文章力の非力さにありますので

どうかお気を悪くなさらないように。。。

 

マリオでは1面をクリアした時点で一度リセットがかかるのです。

そして殆どのゲームはこのリセット・システムを採用してあります。

むしろリセットができるからこそ誰でも気軽に遊ぶ事ができるのです。

 

その点ポケモンの興味深い点は先に書いたように

物語性が、サトシとポケモン二つの存在によって担保されているという事です。

サトシ側はジムリーダーを倒すことによってもらえるバッジ・システム

ポケモン側は経験値によるレベルアップ・システム

この二つのシステムによって物語性を有する事ができているのです。

つまりオーキド博士にもらったこのヒトカゲ

まさにタケシのポケモンを倒したこのヒトカゲと同一存在であるという事。

その証明はレベルアップシステムによって基礎付けられている。という事です。

 

マリオは1面をクリアしてもスコアが記録されるだけで

マリオ自身のジャンプ力は上がりませんし

クリボーにそのまま触れたら、一度で死んでしまいます。

つまり能力に変化や成長がないのです。

繰り返しますが、変化や成長がないのは悪いことではなく

変化や成長がないからこそ、みんなが平等に遊べるから、間口を広く取れるのです。

 

先に書いた物語性の定義

「アクションに対するリアクション、に対するリアクション。

 そしてそれらの記録の蓄積が、事実関係を生成し、変化していくこと」

の具体的な例をあげる事ができました。(やったね!)

 

もう一度置き換えれば、アクション(タケシを倒せ)

に対するリアクション(タケシを倒しバッジをゲットした、このヒトカゲLv14で)

事実関係(バッジを持っている、タケシのポケモンから経験値を得た)

変化(次の目的地ハナダシティへ行ける、ヒトカゲのレベルが上がった)

ということです。

正直今の僕にはこれ以上噛み砕いた説明ができません。。。レベルアップしたい。。

(上手いこと言えた、、やったね!)

 

マリオとゼルダの比較をしたかったはずなのにポケモンで説明しちゃいました。

お茶目なところもあるんです。

まぁもう簡単にゼルダで説明しちゃいますと

ゼルダの冒険は主人公リンク自体の能力が上がったり

道具とかその他の仲間たちによって出来る事が増えていきます。

その変化はゲーム側からのアクションに対してリアクションしたから

得られたものであり、そしてそうして得たものが

次のアクションにリアクションする為の必要条件であったりもするのです。

 

歴史とはつまり「昔あれがあったから、この今がある」の絶え間ない連続です。

そしてその「物語性」は他でもない「この今」だからこそ振り返る事ができる。

(おっと、これは本文とは関係ないので無視してください。てへ。)

 

 

そして、そういう「物語性」はスマホゲーには実装されていない。

そもそもその実装をめんどくさがっている(ように見えるのは個人的な偏見です)。

 

僕は、任天堂がもしマリオだけをやっていたとすれば

花札やマジックハンドを作っていた時のようなただの子供騙しの

インチキで胡散臭いオモチャ屋止まりだったと思います。

言葉は悪いですが、マリオの例にもある通り、これは本質です。

し、悪いことではありません。子供を気持ちよく騙すのだって大変なことだからです。

 

で、どこまでいってもこの胡散臭さを解消しきれていないところが

スマホゲーの限界であり、その限界を超える為には

「物語」を作るしかないということです。

で、僕がスマホゲーに好感を持てないのは

スマホゲー業界が他分野からの尊敬を集められないのは

あの業界から物語を作るという気概が感じられないからです。

そこに尽きます。

 

 

 

ちょっと疲れました。

一旦休みます。

次回も多分この続きを書くと思います。

次回のお題目は

・尊敬や信仰はシステムではなく物語に集まる(政治と宗教について浅〜く)

・物語性は、コンテンツだけの話じゃない

・広告と物語性

こんな感じになると思います。

 

ほな、ばいなら。