広告批評

『広告』についての色々書きます。

ゲームと広告

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

昨日ゲームについて少しだけ書いたのですが

そのあとYouTube宮本茂さんと松本人志さんが対談している動画を観て

ふと気がつきました。

 

「あぁ、僕がやりたい広告ってゲームの事なんやなぁ、コントや漫才の事なんやなぁ」

 

何が言いたいかというと

ゲーム開発も広告戦略も、複数のプロットが同時進行して行く場合もあるが

最終的には一つのプロジェクトだと思うのです。

で、その本質は何かと言えば

「あの手、この手」。

そういえば電通も企業理念として

 

「その手があったか」と言われるアイデアがある。
「そこまでやるか」と言われる技術がある。 
「そんなことまで」と言われる企業家精神がある。
私たちは3つの力でイノベーションをつくる。
人へ、社会へ、新たな変化をもたらすイノベーションをつくってゆく。

 

ということを一番最初に持ってきています。

ゲームは、プレイヤーが楽しんでもらうためにあの手、この手を考えて

設計に落とし込んで開発する。

次はこうしてみよう、こんな事させたら面白いんじゃないか

海に行けたら空もいけるだろう、空も行けたらタイムスリップもできそうだ

そんな試行錯誤の過程と、広告戦略の過程が、

僕の中でこれ以上なくシンクロしていて、感動しました。

 

広告も同じで、この商品を知ってもらうために、買ってもらうために

今ある技術と媒体とお金と人をどう配分したら面白いだろうか

マリオやゼルダポケモンのような、独立した世界観を作り

ストーリーを設計し、アイテムを考え、

ブロックを踏めば、アイテムが出てくるみたいに

消費者に対しても、「こうすれば、こうなる」を

気持ちよく提供できるような戦略を練っていく。

それが広告の仕事であり醍醐味であるんだろうなぁと思います。

 

そして同じ事はやはりお笑いにも共通していて

要するにゲームやCMって、芸人のネタなんですよ。

それがシリーズ物(ごっつで言えば「ゴレンジャイ」とか「トカゲのおっさん」・・)

だったり、漫才みたいに一発ものだったりパターンはあれど

基本的にお客さんに対して常に「ボケ」を提供して行く立場として

お笑いとも共通しているし、もっと具体的に言えばコピーライティングは

極論、漫才やコントの台本と境界線がないくらい同質のものです。

 

広告はネタであり、ボケであり、ゲームである。

短いですが、これが今日の結論です。

 

ではまた。

 

 

ゲームについて

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

僕は今26歳です。

任天堂ソニーが切磋琢磨して

毎年のように出来る事が増え、画面は綺麗になり、スイスイ動くようになっていく

ゲームの進化と共に少年時代を過ごした幸福な世代です。

ゲームボーイスーファミロクヨン、プレステ2、ゲームキューブ

みんなと同じように大人に怒られながらやりこみ、熱中しました。

 

でも、いつの頃からか新しいゲームが出てもワクワクしなくなりました。

周りに比べても割と早い方だと思いますが

中学2年の頃にはもうプレステ2は映画を観るための機械になっていました。

ゲームをやっている時間は音楽を聴く時間になり

ネットをする時間になり、女の子とメールをする時間になりました。

ゲームをやる事が全く無駄なものに思えてきたのです。

 

周りでもゲームをするのはいわゆるオタクというか

影の強いグループのもの、という印象になっていたので

話題に上がらなくなり、当然新しいゲームハードを持っている友達もいないので

Wiiプレステ3Wii U、最近のプレステ4からNintendo Switchまで

その後の圧倒的な進化を何も知りませんでした。

 

というか、Wiiとか正直めっちゃ馬鹿にしてました。

ゲームが大人の方を向き出した風に思えてきたからです。

ゲームというのは役に立たないからこそ

一見、現実と何の関係もないように見えるからこそ

こちらから追いかけるからこそ良いのであって

向こう側から差し出されたようなものは全然受け取る気にはならないし

媚びてるし、あまりにも商売っ気が臭すぎるような印象でした。

 

大学生になり、進化したゲームに実際に触れても

絵が綺麗と思っただけで何の感動もしませんでした。

社会人になり初めてのボーナスでプレステ4を買っても

ネット配信のビデオを観るだけの機械

BDを再生するだけの機械としか扱う事ができず

数本のゲームをプレイした後に最近メルカリで売り払ってしまいました。

 

もう正直めちゃくちゃ後悔しています。

 

なぜか。

ゲームって余裕がないと楽しめないんですよね。

余裕とは時間的、心理的、経済的、そういった種類の余裕です。

具体的に言えば、ゲームにはとにかく説明がやたら多いです。

これは出来る事が多いくなったことの裏返しでもありますが

本当に選択肢が多すぎるんですよ。

余裕がなければその説明も聞いてられないし

もっと深刻な僕のような人は、まず画面に出ているボタンや

アイコンの意味を読み取る力もないのでいつまでたっても意味がわからないし

意味がわからないからやり込めない。やり込めないから、楽しめない。

その悪循環です。

 

もっと言えば、ゲームをやる側にサービス精神がないと楽しくないんですよ。

何でゲームを買った客がサービス精神出さなきゃいけないんだ、と

つい思ってしまった人は要注意かもしれません。

これは本当にそうですから。

どういうことか。

僕がゲームの楽しさを思い出したのは

最近スタートしたスマートフォンアプリゲームの

どうぶつの森 ポケットキャンプ」があったからです。

でも僕はどうぶつの森をはじめ、ぼくの夏休みとか(これはちょっと違うか)

シムシティとか、牧場物語とか。

ああいう抑揚の無い、または完結の無いゲームが全く理解できませんでした。

多くの男の子はそうなんじゃ無いでしょうか。

でも女の子ってあんなゲーム大好きですよね。

僕の彼女もずっと街を拡大し続けています。

 

で、そんな僕が何でどうぶつの森を面白いと思ったか。

それはサービス精神のゲームだからです。

どうぶつたちに喜んでもらうために色んなところに行ったり戻ったりする

ただそれだけなのになぜか続けてしまう。

続けてしまう理由にはシステマティックに効果音の快感とか

キャラクターの絶妙な可愛らしさとか画面構成とか

色々理由はありますが、本質はサービス精神です。

先に自分がこうしてあげれば、こういう結果が返ってくる。

「先に」というのが重要です。

 

つまり、ゲームとは「入力」と「反応」の繰り返しなのです。

こうすれば、こうなる。

ここで、このタイミングで、このボタンを押せば、こういう事になる。

そのパターンの多彩さやセンスがゲームの面白さなのかな、と思いました。

そして、心に余裕がなければそのパターンを読み切る事ができないし

味わうこともできないのです。

 

でも逆説的ではありますが、僕はゲームをすることで

心の余裕も、サービス精神も、ワクワク感も取り戻せると思っています。

最初は我慢が必要ですが、少し我慢して続けていると

普段使っていなかった頭の新しい回路が目覚め始めます。

そして今時のゲームは然るべき入力をすれば

本当に「おおっ」と思わせるような答えを返してくれるはずです。

 

その最初のゲームに僕はどうぶつの森 ポケットキャンプ」をおすすめします。

サービス精神を回復させるために出来る事が

丁度いいスパンで設計されているからです。

ドラクエとかのRPGやマリオもいいですが

 

どうぶつの森は、やらなければいけない事を、

絶妙に簡単なレベルで用意してくれるからです。

この絶妙なさじ加減が他のおつかい系箱庭ゲームと一線を画しているところです。

そしてできれば、というか絶対に、音声を聴きながらやるべきです。

 

ゲームなんて時間の無駄だ。

そんなことより仕事をしなくちゃいけないんだ。

そんなことより本を読まなきゃいけないんだ。

そんなことより勉強をしなきゃいけないんだ。

 

というような、使命感や責任感にかられている人は絶対にやるべきです。

昔から偉い人が忙しい時ほど一息つけと言っている理由がわかります。

 

 

フリーランス()のみなさん、あなた達は尊敬されてないんですよ。

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

突然ですが僕、「フリーランス」とかいう肩書きをプロフィールにつける人って

あんまり好きじゃないんですよね。

こういうこと書くと、やれ「社畜」だとか「消耗」だとか反論来そうですが

(僕は今会社員で、しかも同世代と比べて

圧倒的な給与をいただいている訳でもないので)

個人的には本当にその通りだと思うので、特に反論はできません。

グズグズ働いている僕が悪いし、僕が会社員として働いていることは、

イコール社会的にも損失であるとは思います。

 

例の「消耗」ワードを生み出したイケダハヤト氏のことはある意味尊敬しています。

何を隠そう、僕がこのブログを始めた大きな理由は

彼の存在に依るところが大きいからです。

単に彼に触発されただけです。

その限りにおいて、彼を尊敬しています。

あと、やっぱりはぁちゅうさんとかもまぁ本当に偉いですよね。

 

で、僕と同じようにそういうネット有名人に憧れて

「会社やめました」系ブログを書いている有象無象たち(当然僕も含めてですが)

この人たちの会社員を馬鹿にした物書きの態度には全く賛同できないどころか

そんな風に言ってるからいつまで経ってもお前らは尊敬されないんだよ。

と、思います。

 

もう一度書きますが、給料ベースで生計を立てている僕らみたいな人たちは

そのほとんどが明らかに社会的な損失です。

一体どれほどの人が今自分がしていることに「やり甲斐」を感じているのでしょう。

責任と心理的罰則の割には甲斐のない仕事がほとんどでしょう。

それはもう散々色んなところで書かれてある理由ですし、僕も概ね同意します。

「楽しくなければ、仕事じゃないじゃん」の意味合いは年々強くなっていきます。

しかしそれは自明の上で

なんでじゃあ僕らが今の仕事に引きづられて生きているのか。

なんでみんながみんな都会にしがみついて生きているのか。

 (僕はもう都会にはいませんが)

 

そこらへんを分からないフリをして

あえて辛めの言葉で揶揄している

そんな彼らのブログの主要コンテンツは何かと言えば

財テク」と「自己啓発」です。

で、奇しくもこの「財テク」と「自己啓発」のトップに君臨しているのが

先ほどのイケダハヤトさんとはあちゅうさんです。

(なんということでしょう。)

 

日本の大企業や役所の仕事を貶すことは当然です。

僕の会社を含め、貶されるべき無駄な仕事が多いのは事実です。

しかしそこで働いている僕たちのことをdisることが

一体どういう風にあなたのプラスになるのか。

会社員という立場は、金策に走るリスクを回避し

いざとなればバックレ離散というポジションを

(無意識的にではあれ)取っているのです。

または上司や部下や、その他大勢の目の前にいる利害関係者に対して

「この人たちに恨まれたくない」や「この人の為に投げ捨てられない」

であったり、そういう尊敬や服従意識も実際あるのです。

し、日々の多くの細かな仕事はそういうことの連続で回っています。

 

そんな人たちに向けて

「お前らは損してる、頭が悪い、無駄無駄無駄、生産性、思考停止、消耗、、」

そんな言葉を投げかけてくる相手のいう事なんて誰が聞くんでしょうか。

・・・「お前が聞いてんじゃねーーーか」と総ツッコミが聞こえますが

それは僕が痛い奴だからです。

僕はリアルの知人にこのブログの存在を明らかにしていません。

来年結婚してもらう予定の将来の妻にも言ってません。

 

なぜか。

はっきり断言できます、信用を失うからです。

僕が持ち合わせている信頼やいくらかばかりの尊厳が

一瞬にして崩れ去ることが明白だからです。

 

いや、わかっています。彼らが無知なのです。

無知で、不勉強で、非論理的で、硬直しています。

ただ、それはネット有名人たちによる

むやみやたらと嫉妬を煽る投稿や表現と

自分はまだそのステージに行けていないはずなのに

便乗し、加担する雑魚フォロワーたちの形成する意見や行動と無関係でしょうか。

それらを見て、乗り気になる少数の人と

その中でちゃんと経済的に自立できたごく少数の人と

確証を持てないきらびやかな画像や文章を前に、硬直してしまう大多数の人。

 

その固まった姿を揶揄してるから

そしてその結果生み出したものが

旨そうな飯とワインの画像と、南国の写真と、収益報告と、自慢と揶揄。

 

それ、さもしいですよ。イケてないですよ。

そんなにあなた方がすごいのなら、そのPV数と影響力で

挑発ではなく、啓発でもなく

もっと真っ当な言い方でものを伝えましょうよ。

 

「ブログ書いてるんだよねー。」

YouTubeチャンネル開設してみた。」

「明日の夜LINEライブするわー。」

 

こんな広告の中でしか聞いたことがないような

こんな会話がもう少しカジュアルにできるように

白い目線で見られることが無いような空気を作って行きましょうよ。

 

財テク自己啓発ばかりのネット空間なんてまじで超つまんないですよ。

フリーランス()のみなさん、自由を得たのなら次は尊敬を集めましょうよ。

今のままではみんなそっちに来ませんよ。

 

 

どうゆうこと??

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

ち、ちょっと待ってくださいよ。。

ブログを書けば書くほど訪問者が減るってどういうことなんですか。。笑

よく分からないですねぇ。。

 

でも、よく分からない事が起きた時に

それは誰かが知っていて且つ、自分は分からない、という可能性は

いつの時も捨ててはいけないので、謙虚な姿勢でポツポツ書いていきますが。

 

近い将来に訪問者数が今よりも高い水準で安定して来た時に

わかるようになるんだろう、という予感がしています。

 

僕はまだ自分の「文癖」みたいなものも自分でわかってないレベルですからね。。

 

仕事いって来ます。

 

 

炎上とは

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

本当に嫌ですね。このCM。。

最近Youtube見るたびに出てくるんですよ。

歌もそうだし、全体的な色のトーンも暗く設定されているし

まぁ最近よくある手法ですよね。

それにしても消臭剤のCMなのに、「悪意」は匂わすんですねぇ。。


【ファブリーズMEN】頑張るMEN

 

 

で、最近だとビールの「頂」の「こっくぅぅ〜ん!」もそうですし

一昔前なら「ドロリッチ」なんかもそうですけど、このレベルの映像の作り手たちが

この映像が視聴者に与える不快感を理解してないとは思えないんですよね。

牛乳石鹸」の「さ、洗い流そ」もかなり研ぎ澄まされたギリギリの線を狙ってましたよね。

 

そして何かと炎上炎上と騒がれてる昨今のメディア環境から鑑みても

(なんかあの感じって「俺最近寝てないわ〜w」自慢にも通ずるウザさがありますね)

表現には細心の注意を払っているはずなんですけど

こういう挑発的なクリエイティブが一向になくならないのは

多分、炎上が売上にほとんど影響しないからじゃないでしょうか。

 

だとしたらクリエイティブって何なんだよ。っていうことになるんでしょうけど(笑)

大企業だととりあえず慣習的に予算がついちゃってるから

とりあえず作って動かしてるっていうのが本当のとこなんじゃないでしょうか。

 

いずれにせよ、今の僕にはわかりません。

早く分かるような立場になりたいです。。

 

なんか内容薄っぺらいようですが、今回はこれにて。

とにかく書く。歯を磨くように書く。というのが当面の目標なので。

 

 

広告はもう一度大きな物語を描けるか

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

久しぶりに広告本来の事について書きます。

 

突然ですが、インターネット上の追跡型広告の個人化の技術は

いよいよ来るところまで来てますよね。

Googleカルティエの指輪(女性用)を検索した後に

何の気なしにInstagramを開いたら、カルティエの広告(男性用腕時計)が出ました。

 

自社の製品・サービスへ潜在的なニーズを持っている個人を特定し、

その個人の欲望に先回りして広告を提示するという技術。

 

沖縄について一度でも検索すると沖縄への格安航空チケットや

ホテル予約サイトのページが広告として表示される。

といった事が今ではほとんど毎日のように

驚くべき速度と精度で現実に展開されています。

広告の理想形にほとんど近づいていると思います。

 

僕はまず第一に広告クリエイティブが好きで、業界に興味を抱いたのですが

そんな情緒的な世界観とは全く別の次元において、全く別の論理によって

ただ制度的なメディアテクノロジーや媒体を取り巻く環境の変化によって

顧客ニーズが満たされてしまうような広告の冷徹な働きも好きです。

この身もふたもない感じに生理的な快感を覚えてしまいます。

広告はとにかく理系と文系が、聖と俗が、意識と無意識が、混ざり合う場所なのです。

 

ではまたもや唐突に一転し、広告の情緒的な文脈を書いて見たいと思います。

タイトルにある大きな物語とは。。。

とりあえずウィキペディアの記事を引用します。

 

「大塚は『物語消費論』で、ビックリマンシールシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。ここで「大きな物語(世界観・設定)」という意味で「物語」という語句を使うことは紛らわしいことから世界観消費といいかえられることもある[2][注 1]

「東はこれを踏まえ、物語消費論でいうところの「大きな物語(世界観)」が「大きな非物語(情報の集積)」に置き換わり、その文化圏内で共有されるより大きな「データベース」を消費の対象とする形態をデータベース消費と名づけ、特に日本の1990年代後半以降のオタク系文化において顕著にみられるとした。」

 

・・・要するに

「今自分が触れているこの広告は、他のみんなも知ってる広告だ!」

っていう感覚が世の中のみんなに共有されているという感覚

=「(例)ビックリマンシール集め」という大きな物語をみんなで読んでいる

という全体的な感覚のことです。オリンピックとかもそうですね。

これの反作用としていうと例えば

自分だけが知ってたはずのマイナーなバンドがいつの間にか

有名になって、その瞬間なんとなく熱が冷める、といったようなことでしょうか。

 

「マス広告」としてのテレビは

そのような大きな物語を描くキャンバスとして

本当に理想的なメディアでした。そしてその機能は急速に衰えていっています。

笑っていいとも!の最終回がその終焉を象徴的に表しました。

錚々たる芸人たちが一堂に会したあの光景に感動するのは

今までずっとそれぞれの番組を観続けてきた事で

それぞれの物語を読んでいたからです。

しかし、あれからもう毎年のようにテレビ復権の期待が寄せられていますが

今のローティーンからすれば全然関係ないので、

少なくとも10年後にはそんな期待が持たれていたことも忘れ去られてしまうのでしょう。

現在26歳の僕はギリギリこの大きな物語にも乗れた世代です。

個人的にはやっぱり寂しいと感じる部分もかなりあります。

そしてその大きな物語の終焉に参加できなかった

悲しい元芸人の出ていた

テレビCMを覚えていますでしょうか。

 

「おいらはボイラ、ミウラのボイラ。

 知ってる人は知っている。知らない人は、覚えてね。(鼻から湯気シュー!)」

 

(あぁ、紳助さん・・今どこに・・)

このCMのメッセージこそが今回の僕の論旨です。

ネット広告の個人化の流れには、個人間の情報格差と分断が裏返しに存在します。

知っている人だけが知っている、状態とは

知らない人は=知りたくない人なので、

ブランド価値毀損回避の為に、あえて広告が避けられる、状態の事です。

つまり、先に書いたように、広告がテクノロジカルに、効率よく個人に配信され

その情報がその個人以外に共有されない、という特性をもつネット広告は

その便利さがある閾値に達した瞬間(広告される側の経験値が高まり切った瞬間)に

限界効用逓減の法則に従って、広告に触れる人からの

ネガティブな反発が起こりうるというのが僕の結論です。

 

大きな物語が描かれた本が閉じられて久しく

在りし日のリテラシーを失った人々が

広告主から単なる属性の一部として扱われ

数秒ごとに商品・サービスとマッチングさせられる世界

そういう風に、広告される側が、自分を馬鹿にされていると感じた瞬間から

広告価値の急落が起きるんじゃないかと思います。

 

GoogleHomeやLINEClovaといったものが家庭に入りかけている中

果たして今後広告はもう一度大きな物語を描いていけるのでしょうか。

ソフトバンクのCMも新たな段階になった今、そんな事を考えました。