広告批評

『広告』についての色々書きます。

僕と広告と仕事と、運命

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

昨日に引き続き僕と広告業界について少し考え続けていました。

どうにかうまくこの気持ちを正当化できないか・・・・(ではなくて!!)

 

えー、ウホン、僕は広告が好きだ。広告業界に憧れがある。

しかし何を根拠に、なんの体験がベースにあってそんな気持ちが湧き上がって来るのか

自分でさえも自分の気持ちがわからない。

僕が広告の仕事をする必然性や、宿命的なものなんて何も感じない。

しかし、転職者として、それが今求められているような気がする。大いにする。

広告業界の神やゾーマのような魔王に試されているような気がする。

 

今から考えれば、、(ごめんなさい、唐突にたとえ話しまーす)

スティーブ・ジョブスが(例え話でジョブスの話を持ち出す人って、なんか胡散臭いですよね。分かります、分かりますがここはひとつ聞いてやってください。。)

Macを世に出し、iPhoneを世に出したことは必然で、運命で、

彼はまさにそのために生まれてきたかのように思われますが

恐らく実際はそうではなく、その運命的な物語は全て後付けだと思うのです。

つまり、彼自身がMacintoshを生み出し、その延長線上にiPhoneがあることの歴史が、

その彼の行動の事実一つ一つが年表的に網羅されることではじめて

何か一つの筋のようなものが見えてくるような気がするのです。

それを彼自身「コネクティング・ザ・ドット」と言いました。

そして、これもまた有名な逸話ですが、

近年のMaciPodiPhoneと続く華麗な道のりの原点は

彼がまだ何者でもなかった頃の大学生時代に受けた

カリグラフィーの講座(綺麗な文字の書き方?的な?ごめんぶっちゃけ全然知らんわw)にまで遡ることができると言っています。

 

つまり、動機とかそんなものは全て後付けだというのが現時点での僕の結論です。

人は何かを為そうとする時、動機だとか志望理由だとかの理念が先立つことは無く

荒唐無稽でバカみたいに主観的な欲望だけが常に先走ってしまうものなのです。

(あえて少しダーティな言い方をすれば、それは限りなく性欲に似ていると思います)

そして、いつかついに何かを成し遂げた時、または何かを為せる術を得た時に初めて

その行為や結果に対する動機が事後生成され

さらにその後に為していくであろう全てのことに繋がって行くのだと思います。

 

以上のような意味で言えば、僕はすごく広告業界とF**Kがしたいのです。

もう一度あえてこの比喩を用いれば、僕には広告業界が魅力的な美女に見えているのです。

しかし、そんな彼女を口説くための準備や、技術や信頼がありません。

だから、こうして悶々と自慰行為のようなブログを書かざるを得ないのです。

(どうしてこうも「性」というものはあらゆるものに例えやすいんでしょうか・・)

 

まぁぶっちゃけのぶっちゃけ、本当の本当は

そんな準備だとか技術だとか知恵なんて必要なく

自信さえあれば結果は自ずとついて来る。というのが持論なのですが

普通に考えて、広告は現実の一人の人間ではなく、

単にビジネスなので色々向こうにも言い訳が必要な訳です。

採用担当の方にだって上司への報告義務があるでしょう。

(もっとも、上司よりも自分への言い訳でしかないのでしょうけど)

その相手側の言い訳を作ってあげるのが転職希望するオトナの対応だとも思います。

そしてこの考えは当然ながら他のあらゆる仕事や、夢や、やりたいことがある人に関して、普遍的な意味を持つものだと自負しています。

 

 

何が言いたかったのかまとめると

1、広告が好きだ、憧れがある

2、でも広告の本当のことなんて何も知らない

(2.5、そしてぶっちゃけそれでいいと思っている)

3、でも仲間に入れて欲しいし、その為に礼儀としてできる限り広告のことを知るべきだと思っているので、これからも何か色々と頑張る。

 

以上、ありがとうございました。

 

 

 

 

真摯に

 

さっきの記事の追記です。

 

あえてもう一つの記事として書きます。

 

やっぱり一昨日までの記事は全部綺麗事のかっこつけですよね。

広告業界について」は別ですが。あれは本当に真剣に書きました。

 

ここからは本当にかっこつけなしで真摯に書いていきますよ。

今の僕は本当に具体的な知識レベルはめちゃくちゃ低いですから。

 

それを自認した上で、どんどん書いていきます。

本当に毎日書きます。

どんな小さな気づきでも、毎日書きます。

 

どちらにしろ、あと一年は今の場所は動けないですから。

一年後、どれだけ今の状態から進んでいるか自分でも楽しみです。

 

よろしくお願いします。

 

 

僕は広告で何がしたいんだろう

 

いつもお世話になっております。

広告批評です。

 

 

僕は広告業界に入りたいと思っています。

グラフィカルなクリエイティブは向いていないので

それ以外の分野で関わりたいと思っています。

 

でも、じゃあ具体的に何がしたいのか。

それは広告、しかも大手代理店じゃなきゃいけないのか。

コピーライター事務所や制作会社じゃないのか。

上っ面な気持ちがまだ重なりすぎていないか。

綺麗事ばかりでものを考えていないか。

ちょっと真剣に考え始めたら、またわからなくなりました。

 

だってそもそも論を言い出したらキリがないですよ。

市場は開放されていて、電通にできることは博報堂にもできるし

もっと言えば、全然異業種が代理店的な働きをすることもある。

小さな個人事務所が大きなコンペを勝ち取ることだってある。(らしい)

それに今大手代理店への風当たりは大変強い。(らしい)

また、僕が広告を好きになったきっかけとなったような

典型的な花形仕事は、おそらくもう戻ってこない。(確信)

 

そんなこんなで僕は何がしたいのか。

正直全然具体的なものはありません。

理由は簡単で今この瞬間はパッと言葉に出せないような

自分自身でも予想もつかない仕事をしたいから。

 

全然理由になっていないですかね。

すごくバカ正直に書いてしまいすぎて

一気に信用失いそうですが、真摯に突き詰めて考えたら本当にこうなりました。

嘘だけはつきたくありません。

 

本音を言えば、楽したいからですよ。

大手代理店の名刺を使って、短期的には個人じゃ成し得ない影響力ある仕事と

その仕事という名目で本当だったら関わり会えないような人と会えるからですよ。

広告という仕事はそういう意味でレバレッジが効いてると思ってるんですよ。

それ以外にあるわけないじゃないですか。

それ以外は全部綺麗事ですよ。

全部自分の欲望を満たすため。自分の疑問を解消・体験するため。

そのために体力と時間と足りない脳みそを差し出しますよ。

一生懸命サービスしますよ。期待に応えますよ。

っていう約束をしたい。

 

で、今の僕はおそらく自分が求めていることと、求めらられている信頼と能力と機能に

大きな開きがある。(ぶっちゃけ、一度入ってしまえばなんとでもしてやるという根拠のない自信だけはあるが)

なので、とりあえず勉強と称してこんなブログをセコセコセコセコと、

文字通りこの世界の片隅で書いています。

 

無駄じゃなかったと言えるような日が来るのかな。

 

ではまた。

 

 

 

 

お久しぶりです。

 

どうもこんにちは。お久しぶりです。

 

1ヶ月更新していませんでした。

その間何をしていたのかというと、

宣伝会議賞への投稿に勤しんでたりしていました。

はっきりと言って、僕は単に勉強不足です。

広告についてはおろか、政治や経済についても何も知りませんでした。

ずっと知った気になっていました。

ネットニュースやネット有名人の細かなつぶやきやオピニオンに触れているだけで

自分がすでに何者かに成っているような錯覚に陥っていました。

 

広告コピーでも何でもそうですが、「ものを書く」とか「説明する」って

その瞬間に初めて学びが成立したり、

あるいは、思ったことについて、一文字ふた文字書いた瞬間

その時に初めて学びがスタートしたりするもの何だなあと実感しました。

 

単純明快で、今更何を・・・という話ではありますが

ツイッターでエッセンスだけぽろっとそれっぽいことを呟いて

わかった風に振る舞うのは僕の人生にとってかなりクリティカルな損失でした。

僕はこういった行為を「損切り」しようと思います。

だいぶ出血した後ですが、まだギリギリ(広告人ワナビーの夢の実現には)

間に合うと思っています。

というか、間に合わせます。頑張ります。

 

 

 

・・・「損切り」という言葉を使いました。

これは一般的に広告についての言葉ではありません。

投資とかFXに関する言葉です。

なぜそんな言葉を使ったかというと

「広告」というテーマを深堀りしていくと

僕は経済の壁にまずぶち当たったからです。

僕はこの壁の存在を最初は理解できませんでした。

しかし、自分が向かうべき道は間違いなくこの道の先にある。

今回この壁を回避してもおそらくまた近い将来に

必ず現れてくるだろうという予感がしました。

 

そしてふと気が付いた時には

僕は仮想通貨や株式投資HTML5CSS言語についての本を借りて読んでいました。

完全に広告から遠く離れて行ってしまいました。

そして恐るべきことに、広告なんて近未来にはその役目を終えるから

僕が将来やりたかったことなんて、それができるようになる頃には

もうこの世からなくなっっているだろうという結論にまで至りました。

 

しかし、それもまた冷静になった今ならもう一度否定することができます。

これは正当化ではなく、人が人とコミュニケーションをとり、

また人と人とがバラバラに生きている限り、

本質的に広告的な働きは必要とされるからです。

もちろんそれは今のようなビジネスの形は取らないかもしれませんが。

 

少し脇道に逸れてしまいましたが

やはりちゃんと戻ってきました。自分自身で安心しています。

もう一度広告について感じたこと、思ったこと、学んだことを(中心に)

つらつらと書いていこうと思います。

 

以上、よろしくお願いします。

 

 

働き方とメディア

 

スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫NHKのテレビ番組「プロフェッショナル」に出演した時に話していたことがある。

 

「映画って、二種類しかないんですよ。一つは、全てを見せてくれて、何も考えずに楽しめる映画。そしてもう一つは、何か引っかかって、その引っかかった理由を考え始めると面白くなってくるという映画です。僕たちはやっぱり、多少でも考えるともっと楽しめるというほうの映画を作りたい。ーーー僕たちが子供の頃、映画を見たら、「ああ、面白かった」で大概は終わりでした。あとまで引きずることはありませんでしたね。ところが今は、ジブリ作品に限らず、みんなが映画に期待しているのは、引きずるものなんですよ。ーーー娯楽というのは、日頃は一生懸命に働いている人間が、休みにそれを体験して、「ああ面白かった」と言ってそれで終わりにするものではないか。翌朝起きたら、映画のことなんてさっぱり忘れて、また仕事に向かうというのが、健全なあり方なのではないか。そう思っている部分が、僕の中にもあるんです。」

 

約10年前のインタビューだが、2017年も終わりが見えてきた今、やはりこれからますます、メディアの時代になると思う。

日本で、今日のような現代社会が成立し、さらに成熟したのはいつの頃だろうか。

その日の飯に食うに困らない、また明日も明後日も一年後も、おそらく大丈夫だろう。

そんな安堵や安心感が生まれ、余暇の時間ができ、学校の教室の一通り誰もがその余暇に空想に浸ることができるようになった時代。

いつの頃からだろう。1950年代からだろうか。日本にテレビが普及し昨日の夜観た番組が翌朝学校や会社で話題になるようになった時代。

それが当たり前になった時代・・・。(なんと幸福な時代だろうか!)

 

少し話を飛ばして考えてみよう。引き金は上記した鈴木の言葉にする。

「日頃は一生懸命に働いている人間が、休みにそれを体験して、「ああ面白かった」と言ってそれで終わり・・」

そのように鈴木が感じていた時代、人々は一生懸命働いていたというが、一体何をして働いていたんだろうか。

多くの人は農業ではなく、工業文明に則った製造業を中心とする「ものつくり」の仕事だろう。

目に見え、耳に聞こえ、味があり、匂いがあり、手に触れることができる「もの」。

その頃の多くの人は「もの」を作っていた。多種多様なものを作ることで価値とし、お金を通してそれらを交換することを、生業とする。

缶コーヒー、ウォークマンレトルトカレー、洗濯機、テレビ、車・・・

どれもこれも、誰にとっても一定の客観的な価値を持ち、さらには消費者にとって厳格な製造コストが感じ取れるものである。

 

個人が年間に消費する金額の中で、当然ながら最大のウェイトを占めていたのが(今日でも変わらずそうであるが)

そのような固定された価値のある商品群である。世の多くの人はそれら客観的な価値を作り、売ることに奔走し、生活していた。

機械でも食品でもなんでも、わかりやすい目的のもとに人々が集まり、生計を立てていた。

それが今やどう変わったか。別に否定的な意味で言っているのではなく、むしろある意味では幸福なことである。

人々は今や生命維持が最大の目的ではない。(なんたることか!)

然るべき行動をとれば春夏秋冬雨風に難儀することはありえない。

食事も24時間確実に取ることができる。

そして、余暇が生まれた。

明日明後日の飯に困ることのなくなった人間はどうするか。

それは、余計なことを考え始める、ということだ。

 

「どう生きるか」とか「死とは何か」とか「人間とは何か」「地球とは何か」「社会とは」・・・

実にくだらない、そんなこと考えて何になるというようなことの数々。

そんな引っ掛かりを抱えたまま、土日を過ごし、会社へ向かうことになってしまう。

平穏無事に一ヶ月終えれば、良いことがあったにせよ、悪いことがあったにせよ、契約のもとに一定の賃金が振り込まれる。

自分一人が少々仕事をサボったところで表面上はなんの影響もないように見える。

それはつまり、自分という個人の価値が極限にまで最小化された時代である。

個人の価値が最小化され、それと同時に、社会からは至れり尽くせりのサービスが舞い込んでくる。

(衣食住と衛生のコストがここまで減少した時代があろうか。)

これを別の場面で、宮崎駿高畑勲両監督は「生きている手ごたえのない時代」と呼んでいる。

そのような環境においては、自分は今何をしているのかなんて、とりとめのない不安が断続的に襲ってくるようになる。

そして映画芸術がそんな不安を敏感に察知し、表現の中に巧みに織り込み、観客である私たちに突きつけてくる。

 

続く

 

僕の病気

 

今、僕の脳内はクリアになっている。

思考する上で、何も遮るものはなく、スムーズに右から左へと考えていることが流れては、壁にぶち当たりはね返ってくる。

そんな状態を作り上げるのは容易なことじゃない。体力のいる作業だ。

少しの運動と、少しのカフェインで成り立つこともあるが、ほとんどの場合はそういうわけにはいかない。

もっとクレイジーな状況を目指して、その静謐な境地まで、自分を押し上げていかなければいけない。

何かを「ものす」とはおそらくその過酷な作業のことをいうのだ。

 

しかし、その作業に取り掛かろうとしても、どうしてもうまくいかない時がある。

まるで自分が自分じゃないかのような、自分の考えていることがうまく自分で呑み込めなかったり、これから「あること」について、例えば小説のプロットとか、広告についてとか、政治についてとか、あるいは意識について。そういったことを考え、まとめようとしたところで、また別の「あること」に興味が分かれていき、さっきまでテレビCMの広告効果とネットの連動性について考えていたのに、今ではもうそんなどうでもいいことを考えていた自分が恥ずかしくなるほど、全く違う次元の物事に考えが及んでいる。

そんなフラフラとした寝ぼけた状態が、何度も何度も僕を邪魔してくる。僕にとっては抗いようのない程大きな力なので、誰か第三者のかけた妨害電波のような感触があるので、邪魔されているという気がするのだが。実際のところ、別に誰かがそんな電波を流していることもなく(アメリカ合衆国の陰謀によって・・・ということになれば、それはそれで興味深いのだが)単に、自分自身が寝ぼけているだけなのだ。

この身も蓋もない、トンマで些細なことが、僕にとっては自分の二重人格性も疑わざるえをえないほど深刻なものに思われる時があるのだ。

だって、本当にさっきまであんなに心配していたことが、ほとんど身を切るような痛みさえ感じていたほどのことなのに、何かのきっかけか、ほんの数分後にはなんのことはない、そんな心配事を理路整然と解釈し、数分前の自分に優しく説明してあげられるような心持ちになれる時があるのだ。しかも、まだその数分前の不安の残り香が鼻先を漂っている間に、だ。つまり、この瞬間、不安を感じていた自分と、その不安を解消できる余裕を持った自分が完全に並列しているということ。(さらに、その二つ並んだ分身を、俯瞰で見ている自分もいるのである!)

この不安な自分と余裕な自分と、俯瞰する自分の三つに自己分裂をどう説明しようというのか。度々訪れるこの自己分裂とどう付き合っていけばよいのか。そして実はもう一つ告白すれば、僕はこの自己分裂に酔っている。陶酔し、酒を飲み、愛する人の性器をベロベロといやらしく舐め回している時のようなどうしようもない恍惚を感じながら、いつまでも浸っていたいなどと願っている!

自分が病気であることを知りながら、それが治癒した後に他人に対して払わなければいけない責任感からなんとか遠ざかりたいがためにいつまでも点滴を抜きたがらない、問診票を手放したがらない、「病気愛好者」とも言える態度を取ろうとしている。これは一種の現代病であると僕は信じている。今に時代には、僕の他にもこのような愛好者は多くはびこっている、それを表に出すことを好む人もいれば、容器にひたひたになるまで溜め込んでおきながら、それをこぼして他人に迷惑はかけまいと必死に隠している人もいるが、僕からすれば全て同じだ。

僕は、僕ら現代人は、特に日本人について多く言えることは、みんな病を抱えているということだ。完全に病んでいる。健康になれる処方箋を自ら知っておきながら、処方箋の効用について他人に対しては事細かく説明し(無免許にもかかわらず!)幸せになる=無益な病気から逃れることを追求させているにもかかわらず、そのレビューは自分自身に対しても有効であることは理解した上で、決して呑み込もうとしない。

こんな馬鹿げたことがあるか。悲しみを自己生成してその湯船に浸かり、そこから出ようともしないなんて。世界には、いや特に世界に目を向けなくても近所の公園に群がっている浮浪者を見ればよい。その家族について想像すればよい。その瞬間に湧き上がる情けない悲しみの気持ちが否応なく押し付けられている人々が、好むと好まざるにかかわらず、自分の望みでない状況を強いられている身近な全ての人に目を向ければよい。

自分の置かれた幸福を比較的に実感させてくれる、見かけ不幸な連中に思いを馳せれば、そんな馬鹿げた病気愛好など、どうしてしていられようか。そんなおこがましい、小賢しい試みから一刻も早く脱出しなければいけない。一人でも早く、その泥沼から抜け出し、その泥沼から、友達を引っ張り上げて上げないといけない。この人類史上類を見ない物理的幸福な環境に生きている現代人として、また、そんな幸せな時代を共に生きてくれるエキストラ達に対して、責任を待たなければいけない。明日には死ぬかもしれないのだ。明日あなたが歩いている横断歩道に2トントラックが突っ込んでこない、なんてことを誰が責任を持って言えるというのだ。昨日激突されたその人と自分に、なんの違いがあるというのだ。精一杯報いるべきだ。生きていることに対して、精一杯報いるべきだ。幸福に暮らす権利と環境を、僕らは無自覚のうちに与えられているのだから。

キズパワーパッド

 

 

毎日一つ、特定の商品や、プロダクト、映画、音楽、サービス、アプリケーションから人物まで、広告したいものを選び、それについてのキャッチコピーを考えます。最低20個の案を出します。そのコピーを考えた根拠も解説します。→なんか恥ずかしいのでやめました(笑)

では、下記が今日のキャッチコピーです。

 

商品名:キズパワーパッド

 

 

 

 『愛よりも早く治す』

 

 

 

 

『結論:絆創膏は貼った方が良い。』

 

 

 

 

『貼る前に、両手で温めてください』

 

 

 

 

『傷つかないための気遣いと、傷ついてしまった後の気遣い』

 

 

 

 

『心の傷は歌で、体の傷はキズパワーパッドで。』

 

 

 

 

『ハンカチ持った?ティッシュ持った?・・・絆創膏は?』

 

 

 

 

『もしもの時に持っておくべきは、実用的なものがよろしいかと。例えば絆創膏とか』

 

 

 

 

『バイキン入ったらどうするの!』

 

 

 

 

『歌や言葉で癒せるものと、そうでないものがあります。』

 

 

 

 

『「転んだぶんだけ強くなる」には一回一回ちゃんと治さないとね』

 

 

 

 

『子供が最初に驚くのは、自分の傷の治りの早さ』

 

 

 

 

『血小板すげえ!人間すげえ!』

 

 

 

 

『傷ができる前に貼っておこう』