広告批評

『広告』についての色々書きます。

僕の病気

 

今、僕の脳内はクリアになっている。

思考する上で、何も遮るものはなく、スムーズに右から左へと考えていることが流れては、壁にぶち当たりはね返ってくる。

そんな状態を作り上げるのは容易なことじゃない。体力のいる作業だ。

少しの運動と、少しのカフェインで成り立つこともあるが、ほとんどの場合はそういうわけにはいかない。

もっとクレイジーな状況を目指して、その静謐な境地まで、自分を押し上げていかなければいけない。

何かを「ものす」とはおそらくその過酷な作業のことをいうのだ。

 

しかし、その作業に取り掛かろうとしても、どうしてもうまくいかない時がある。

まるで自分が自分じゃないかのような、自分の考えていることがうまく自分で呑み込めなかったり、これから「あること」について、例えば小説のプロットとか、広告についてとか、政治についてとか、あるいは意識について。そういったことを考え、まとめようとしたところで、また別の「あること」に興味が分かれていき、さっきまでテレビCMの広告効果とネットの連動性について考えていたのに、今ではもうそんなどうでもいいことを考えていた自分が恥ずかしくなるほど、全く違う次元の物事に考えが及んでいる。

そんなフラフラとした寝ぼけた状態が、何度も何度も僕を邪魔してくる。僕にとっては抗いようのない程大きな力なので、誰か第三者のかけた妨害電波のような感触があるので、邪魔されているという気がするのだが。実際のところ、別に誰かがそんな電波を流していることもなく(アメリカ合衆国の陰謀によって・・・ということになれば、それはそれで興味深いのだが)単に、自分自身が寝ぼけているだけなのだ。

この身も蓋もない、トンマで些細なことが、僕にとっては自分の二重人格性も疑わざるえをえないほど深刻なものに思われる時があるのだ。

だって、本当にさっきまであんなに心配していたことが、ほとんど身を切るような痛みさえ感じていたほどのことなのに、何かのきっかけか、ほんの数分後にはなんのことはない、そんな心配事を理路整然と解釈し、数分前の自分に優しく説明してあげられるような心持ちになれる時があるのだ。しかも、まだその数分前の不安の残り香が鼻先を漂っている間に、だ。つまり、この瞬間、不安を感じていた自分と、その不安を解消できる余裕を持った自分が完全に並列しているということ。(さらに、その二つ並んだ分身を、俯瞰で見ている自分もいるのである!)

この不安な自分と余裕な自分と、俯瞰する自分の三つに自己分裂をどう説明しようというのか。度々訪れるこの自己分裂とどう付き合っていけばよいのか。そして実はもう一つ告白すれば、僕はこの自己分裂に酔っている。陶酔し、酒を飲み、愛する人の性器をベロベロといやらしく舐め回している時のようなどうしようもない恍惚を感じながら、いつまでも浸っていたいなどと願っている!

自分が病気であることを知りながら、それが治癒した後に他人に対して払わなければいけない責任感からなんとか遠ざかりたいがためにいつまでも点滴を抜きたがらない、問診票を手放したがらない、「病気愛好者」とも言える態度を取ろうとしている。これは一種の現代病であると僕は信じている。今に時代には、僕の他にもこのような愛好者は多くはびこっている、それを表に出すことを好む人もいれば、容器にひたひたになるまで溜め込んでおきながら、それをこぼして他人に迷惑はかけまいと必死に隠している人もいるが、僕からすれば全て同じだ。

僕は、僕ら現代人は、特に日本人について多く言えることは、みんな病を抱えているということだ。完全に病んでいる。健康になれる処方箋を自ら知っておきながら、処方箋の効用について他人に対しては事細かく説明し(無免許にもかかわらず!)幸せになる=無益な病気から逃れることを追求させているにもかかわらず、そのレビューは自分自身に対しても有効であることは理解した上で、決して呑み込もうとしない。

こんな馬鹿げたことがあるか。悲しみを自己生成してその湯船に浸かり、そこから出ようともしないなんて。世界には、いや特に世界に目を向けなくても近所の公園に群がっている浮浪者を見ればよい。その家族について想像すればよい。その瞬間に湧き上がる情けない悲しみの気持ちが否応なく押し付けられている人々が、好むと好まざるにかかわらず、自分の望みでない状況を強いられている身近な全ての人に目を向ければよい。

自分の置かれた幸福を比較的に実感させてくれる、見かけ不幸な連中に思いを馳せれば、そんな馬鹿げた病気愛好など、どうしてしていられようか。そんなおこがましい、小賢しい試みから一刻も早く脱出しなければいけない。一人でも早く、その泥沼から抜け出し、その泥沼から、友達を引っ張り上げて上げないといけない。この人類史上類を見ない物理的幸福な環境に生きている現代人として、また、そんな幸せな時代を共に生きてくれるエキストラ達に対して、責任を待たなければいけない。明日には死ぬかもしれないのだ。明日あなたが歩いている横断歩道に2トントラックが突っ込んでこない、なんてことを誰が責任を持って言えるというのだ。昨日激突されたその人と自分に、なんの違いがあるというのだ。精一杯報いるべきだ。生きていることに対して、精一杯報いるべきだ。幸福に暮らす権利と環境を、僕らは無自覚のうちに与えられているのだから。