広告批評

『広告』についての色々書きます。

働き方とメディア

 

スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫NHKのテレビ番組「プロフェッショナル」に出演した時に話していたことがある。

 

「映画って、二種類しかないんですよ。一つは、全てを見せてくれて、何も考えずに楽しめる映画。そしてもう一つは、何か引っかかって、その引っかかった理由を考え始めると面白くなってくるという映画です。僕たちはやっぱり、多少でも考えるともっと楽しめるというほうの映画を作りたい。ーーー僕たちが子供の頃、映画を見たら、「ああ、面白かった」で大概は終わりでした。あとまで引きずることはありませんでしたね。ところが今は、ジブリ作品に限らず、みんなが映画に期待しているのは、引きずるものなんですよ。ーーー娯楽というのは、日頃は一生懸命に働いている人間が、休みにそれを体験して、「ああ面白かった」と言ってそれで終わりにするものではないか。翌朝起きたら、映画のことなんてさっぱり忘れて、また仕事に向かうというのが、健全なあり方なのではないか。そう思っている部分が、僕の中にもあるんです。」

 

約10年前のインタビューだが、2017年も終わりが見えてきた今、やはりこれからますます、メディアの時代になると思う。

日本で、今日のような現代社会が成立し、さらに成熟したのはいつの頃だろうか。

その日の飯に食うに困らない、また明日も明後日も一年後も、おそらく大丈夫だろう。

そんな安堵や安心感が生まれ、余暇の時間ができ、学校の教室の一通り誰もがその余暇に空想に浸ることができるようになった時代。

いつの頃からだろう。1950年代からだろうか。日本にテレビが普及し昨日の夜観た番組が翌朝学校や会社で話題になるようになった時代。

それが当たり前になった時代・・・。(なんと幸福な時代だろうか!)

 

少し話を飛ばして考えてみよう。引き金は上記した鈴木の言葉にする。

「日頃は一生懸命に働いている人間が、休みにそれを体験して、「ああ面白かった」と言ってそれで終わり・・」

そのように鈴木が感じていた時代、人々は一生懸命働いていたというが、一体何をして働いていたんだろうか。

多くの人は農業ではなく、工業文明に則った製造業を中心とする「ものつくり」の仕事だろう。

目に見え、耳に聞こえ、味があり、匂いがあり、手に触れることができる「もの」。

その頃の多くの人は「もの」を作っていた。多種多様なものを作ることで価値とし、お金を通してそれらを交換することを、生業とする。

缶コーヒー、ウォークマンレトルトカレー、洗濯機、テレビ、車・・・

どれもこれも、誰にとっても一定の客観的な価値を持ち、さらには消費者にとって厳格な製造コストが感じ取れるものである。

 

個人が年間に消費する金額の中で、当然ながら最大のウェイトを占めていたのが(今日でも変わらずそうであるが)

そのような固定された価値のある商品群である。世の多くの人はそれら客観的な価値を作り、売ることに奔走し、生活していた。

機械でも食品でもなんでも、わかりやすい目的のもとに人々が集まり、生計を立てていた。

それが今やどう変わったか。別に否定的な意味で言っているのではなく、むしろある意味では幸福なことである。

人々は今や生命維持が最大の目的ではない。(なんたることか!)

然るべき行動をとれば春夏秋冬雨風に難儀することはありえない。

食事も24時間確実に取ることができる。

そして、余暇が生まれた。

明日明後日の飯に困ることのなくなった人間はどうするか。

それは、余計なことを考え始める、ということだ。

 

「どう生きるか」とか「死とは何か」とか「人間とは何か」「地球とは何か」「社会とは」・・・

実にくだらない、そんなこと考えて何になるというようなことの数々。

そんな引っ掛かりを抱えたまま、土日を過ごし、会社へ向かうことになってしまう。

平穏無事に一ヶ月終えれば、良いことがあったにせよ、悪いことがあったにせよ、契約のもとに一定の賃金が振り込まれる。

自分一人が少々仕事をサボったところで表面上はなんの影響もないように見える。

それはつまり、自分という個人の価値が極限にまで最小化された時代である。

個人の価値が最小化され、それと同時に、社会からは至れり尽くせりのサービスが舞い込んでくる。

(衣食住と衛生のコストがここまで減少した時代があろうか。)

これを別の場面で、宮崎駿高畑勲両監督は「生きている手ごたえのない時代」と呼んでいる。

そのような環境においては、自分は今何をしているのかなんて、とりとめのない不安が断続的に襲ってくるようになる。

そして映画芸術がそんな不安を敏感に察知し、表現の中に巧みに織り込み、観客である私たちに突きつけてくる。

 

続く